Paul Westerberg "Folker"
早いものでもう1月も半分過ぎてしまった。はやい!
すぐに終わる!
今、久しぶりにPaul Westerbergの"Folker"というアルバムを引っ張り出して聴いてます。
2004年作。
もう10年以上も前ですね。
出た当初はあんまり良いと思わなかったんだけど(その前の"Come Feel Me Tremble"が好き過ぎた!)、今聴くと良い曲いっぱい入ってるなぁ。
"My Dad"とか"Looking Up in Heaven"とか、"As Far as I Know"とか。
いかにも宅録っていう、すげー荒い音なのにいいんですよね。
音良いのとか実は曲が良ければどうでもいいな、と思ったりもする。
こういうの聴くと。
Paul Westerberg - As Far As I Know
いやー、いいね。いつまでも好きなものがあるというのはありがたいこと。
今年は自分ももうちょい曲を発表できるようにしたいもの。
ところでアコギを買ったんですが、今までのは何だったんだ、というぐらい弾きやすい。
弦高低い!
めちゃ安いのにちゃんと調整されてんな!と感心。
ネットで買ったので不安だったんだけど、良かった。
音はかゆいところに手が届きそうで届かないみたいな、うーん。って感じだけど。
でも少しずつその楽器なりの鳴らし方がわかってきて、それに響きもついて来るように思えて面白い。
もうちょい弾いたら、少しは好みの音がでてくれそうな気はしてます。
それが楽しみ。
くちなしの歌
歌にうたわれる花って桜とか薔薇とか色々ありますが、クチナシも地味だけど意外とよくうたわれてますね。
っていうのもこの曲、聴いてちょっと思っただけなんですけど。
ビートルズ・ライクなアレンジがすばらすぃ~曲!
他にクチナシが出てくる歌といえば、松任谷由実の『やさしさに包まれたなら』が思い出されます。
ところで、クチナシって実が熟してきても割れないからクチナシというそうです。
要は「口無し」ってことなんですね。へ~。
考えてみると『くちなしの丘』も『やさしさに包まれたなら』もその「口無し」って言葉にかかってるんですね、詞が。
「くちなしの丘」は非常に抽象的な詞で、何を歌ってるのかはっきりと示されないんですが、それはつまり口が無いから、つまり言葉が無いからってことなんですよね。
ところで、クチナシは白くて可愛らしい花ですが、香りがよくて強いです。
確かに桜や薔薇のようには声高に主張しませんが、その存在を暗に匂わせてきます。
ここではそんな名前と花のイメージを巧妙に使われてて、「言葉にしたらすぐに壊れてきっともう戻らない」ほどの内心が曲を通して暗に匂わされ続けますが、具体的なところには全然着地しません。
まさにクチナシのイメージ通りの歌。
一方で『やさしさに包まれたなら』では「くちなしの香りのやさしさに包まれたなら きっと目に映るすべてのことはメッセージ」とあり、クチナシの香りが効果的に使われています。ここでは「目に映るすべてのこと」、つまり口に出されない、言葉になってないことにもメッセージがあるんだ、っていうことをクチナシ(口無し)の香りを使って暗に指し示してます。
そう読んでみると、めっちゃ日本人っぽい考え方に合ってる花な気もしますね、クチナシの花は。
いわゆる察しの文化というか。
そういうところが、クチナシが歌にうたわれる所以な気もしてきました。
ま、考えすぎな気もするけど!
ちなみにブランキー・ジェット・シティの『15才』では煙草をすすめたら「口がないから吸えないって言う」ってめちゃめちゃ矛盾した人が出てくるんですがそれが衝撃的でした。必然性があって、説得力があれば詞は矛盾していいんだ、ということを知った名曲です。
夜の音楽。
80年代とかポスト・パンク、ニューウェイヴ的なひねくれた音楽がいいな、
と思って最近よく聞いてます。
都会的な、夜の音楽。
メロウさと屈折を備えた。
みんな、もっとひねくれればいいのにな。
King Crimson - Neal And Jack And Me (live)
King Crimsonはそんなに聴いてないけど、この時期のは結構好き。
エイドリアン・ブリュー、キレキレ。後半のメロウさもいい。
あまり関係ないが最近のエイドリアン・ブリューの写真見てびっくりしました。
Adrian Belew Photos (8 of 42) — Last.fm
面白おじいさん。
サンプラーとベースと歌っていうシンプルな組み合わせもいいね。
まだ23歳!なのに渋すぎる。King Krule!
時折デヴィッド・ボウイみたいに見える。
秋の夜長に。
というには最近寒くなりすぎじゃないだろうか。急に。